しばらく間があいてしまいましたが、「自己否定ビリーフ」についての考察を続けたいと思います。
ちなみに、ビリーフとは「思い込み」のことですが、ビリーフのなにもかもが悪いといっているわけではありません。 普段の私たちは、多種多様な思い込みをベースにして生きているのが現実なので、「今のところ、生きるために役立っているビリーフ」というのもたくさんあります。
ここで問題にしているのは「はからずも自分を苦しめてしまうビリーフ」、「もっと幸せに生きるためには、もう不要だと思われるビリーフ」についてであり、その代表選手が「自己否定ビリーフ」である、と見立てていることを、今一度確認しておきたいと思います。
■元をたどれば、この3つ
さて、ビリーフセオリーでは、自己否定ビリーフを傾向別に15種類に分類しています。その詳細はまた少しずつお伝えする機会もあるかと思いますが、その中でも、最も普遍的・根源的なものが、これまでも何度かでてきました「欠陥・恥ビリーフ」ではないかと、私は考えています。
参考記事:自己否定ビリーフの王様はこれ!
欠陥・恥ビリーフと日本人
なぜ「自己肯定感」なのか
欠陥・恥ビリーフとは、自分は何かが欠けていて、劣っている、自分は恥ずかしい存在だ・・・というような感覚を抱かせる思考のプログラムです。
実際、セラピーや心理ワークの現場では、これに類する感覚や考えが自分の中にあることを、本当に多くのクライアントさんが語られています。
その言葉のバリエーションはさまざまであっても、結局はここに集約される、というような大きな傾向があります。
それを、私なりに次の3つに分類してみました。
1.欠陥系(自分は何か欠けている、という感覚)
2.無価値系(自分には価値がない、という感覚)
3.罪悪系(自分は邪悪で罪深い、という感覚)
そして、それらトータルして、自分のことを恥ずべき存在と思っているので、全体として「恥の感覚」を持っているということになります。
「欠陥・恥」とひとことで言っても、その中身は人によって微妙な違いがあるようです。このように3つに分けてみることで、その違いが捉えやすくなり、自分自身をみつめる時にもよい指針となるのではないかと思います。
■いちばん強いのはどれ?
自己嫌悪や劣等感に落ち込んでしまう時。
自己肯定感が低い自分にウンザリする時。
目の前の問題に恐れおののき、前に進めない時。
その時こそ、自分を理解し、癒すチャンスです。
そういう気分が自分の中から浮かび上がってくるからこそ、自分の中にあったものに「あーこれか!」と気づくことができるのであり、そうやってつかめれば、手放してサヨナラするところまではもうちょっとだからです。
そういう気分が出てきた時、怖れずに「おっ、出てきたな」と向き合ってみると発見があります。
その時、その苦しくシンドイ感覚に静かにフォーカスしてみましょう。
私は何を一番怖れているのだろう?
いちばん強く感じているのは、欠陥、無価値、罪悪、のどれだろう?
自分の欠陥が明らかになって、バレてしまう感じ?
自分に何の価値もなくなって、カスのようになってしまう感じ?
自分が悪いんだ〜!という、罪を背負うような感じ?
どれがいちばん怖いですか。死ぬほど嫌ですか。
そして、その感じを味わうのは、今回が初めてですか?
きっと違うと思います。
これまで何度も、何度も、
場面を変えて、設定を変えて、登場人物を変えて
いつもこの感じを味わってきたのではないでしょうか。
これを感じた、いちばん古い記憶はいつですか?
そんな風に、自分の心を辿っていくと、
自分の奥にあるのが、
欠陥感覚なのか、無価値感覚なのか、罪悪感覚なのか
なんとなく感じられてくるかもしれません。
それが、私たちを苦しめている「核」のビリーフ、
コア・ビリーフである可能性があります。それはつまり、
私たちがいつのまにか自分自身に下した定義づけです。
私は欠陥がある。私は価値がない。私は罪深い。
自分の存在そのものへの、むごい定義づけです。
その定義づけに従って、私たちは人生を構築してきたのだといえます。
■三つ子の誤解
コア・ビリーフは、幼少期の深い傷つきに由来しています。
幼い子どもは、その無垢と無力ゆえに、大人では考えられないようなレベルで心的な衝撃に敏感です。そして無垢ゆえに、すべてのできごとを自分のせいにしてしまいます。未熟な理解力で、そのできごとから学び、解釈してしまいます。
「お母さんが〇〇してくれないのは、自分に欠陥があるからだ」
「お母さんを助けられなかった自分は、なんにもできないダメな子だ」
「こんな自分は生まれてきてはいけなかったんだ」
「〇〇できない自分は愛される価値がないんだ」
「お父さんとお母さんの仲が悪いのは、きっと私が悪い子だからなんだ」
それは、幼い「誤解」なのですが、その誤解は潜在意識(自分では気づかない領域)に埋め込まれたまま、解けることもなく年齢を重ね、大人になった私たちの中でも、場所を変え、設定を変え、登場人物を変えて、密かに発動し続けます。
なぜかわからないけれどいつも、
自分の足りなさや欠点を指摘されているような気がする。
それは内なる欠陥系のビリーフが引き寄せているのかもしれません。
自分で自分のことを「足りない、欠陥がある」と定義づけているから、その通りの現実に直面することになります。
なぜかわからないけれどいつも、役に立たないと存在価値がないような気がして一生懸命人の世話ばかりしてしまう。
それは内なる無価値系のビリーフが動かしているのかもしれません。
自分で自分のことを「このままでは価値がない」と定義づけているからこそ、「ここまま」ではいられず何かせずにはいられなくなります。
なぜかわからないけれどいつも、人が何か言っているのを見ると「あっ、私が悪かったんじゃないか!?」とドキドキ・ヒヤヒヤする。
それは内なる罪悪系のビリーフが思わせているのかもしれません。
自分で自分のことを「自分は悪い」と定義づけているから、自分が悪いと言われている証拠をすぐに見つけ出します。
以上はあくまでも一例ですが、そうやって、大人になった私たちの今現在も脈々と、誤った解釈であるビリーフは生き続けているのです。
「三つ子の魂百まで」といいますが、私はこのような自己否定ビリーフを「三つ子の誤解」と呼んでいます。それは誤解にすぎないのであり、であるならば「なんだ、誤解だったね。」と気づけばいいのです。
■解放への一歩は問いかけから
とはいえ、あまりにも深く思い込んでいるために、本人にとっては絶対的な事実・真実としか思えなくなっているのがビリーフのやっかいさでもあります。「誤解だった」と気づくまでに、それなりの時間とプロセスを要する場合もあります。
私の行っているビリーフワークでは、ご本人(自分という意識)とビリーフの結合体に少しずつスキマを作っていて、最終的にビリーフを手放していくためのさまざまな手法があり、個人セッションではその方に合わせたアプローチをとっていきますが、ビリーフの構造を理論として知っていくだけでも、ご自身を探求するのに大きなヒントになるかと思い、こうして少しずつシェアしようと思っています。
自分が何に苦しんでいたのか、その実体がわかってくることは大きいです。
わかれば、次から気づける。
気づければ、違う選択もできるようになるからです。
自分が苦しんでいたものって、ひょっとして誤解だったの?
もしかして、それって自分がそう思ってただけ?
自分、そう思ってるみたいだけど、それって本当なの?
そんなふうに問いかけられるようになったらかなり楽になります。
誤解だったかどうか、すぐにわからなくてもいいのです。
自分を苦しめる思いや「この感じ」が、一つの思考プログラムのしわざにすぎない、ということが見えてくれば、得体の知れない苦しみからの解放はもう始まっているのです。