以前、私が作ったある曲について、「こんな曲に包まれたら幸せに死ねる」なんていう感想をいただいたことがあった。
またある時は、2人の親しい弦楽器奏者のためにピアノ伴奏付きのデュエット曲を書いたことがあった。彼女達が演奏し終わった後の感想、「あ〜これで死ねる」だって。「私のお葬式の時、これ弾いて。」だって。
その他、これまで私が作ったアニメやミュージカルの曲でも、人物が死ぬ時や別れる時、何かが終わってしまう時など、どうも「終わりや滅び」などに絡んだ曲の出来がいいと自分では感じるし、実際評判もいいみたいなのだ。
なぜ「死」? いや、死というより「昇天」?
いったいこれはどういうこと??
まさに、私の音楽の志向性を表しているようじゃないですか。
私にとって「死」とは、切ないものでありながらも、不吉なこと忌むべきこと怖いこと・・・のような感じはしていない。
「死」とは「生」の本質であり、何か永遠の次元とつながるような。大いなるもの、宇宙への帰還・・・のような。そんなイメージを持っている。
そして、そのような宇宙的な広がりと崇高さ厳粛さに美と憧れを感じて、それを表現することに喜びを感じるものである。
だから、私が本気で曲を書くと、どうしても「そっちへつながる曲」になってしまうのねえ。それが、どうも「昇天系」の感想を頂く理由ではないかと思い至った。
だから、実はそういう感想は私にとってかなりうれしい褒め言葉であり、希望である!なぜなら、私はこの先、人さまの人生のお見送りの音楽をやる人間になっていきたいから。
お見送りの音楽については、以前書いたエントリー「お見送りの音楽」を参照していただきたいが、終末期医療の在り方が模索され、病院でチューブと機械につながれて命を長らえるより、住み慣れた家で家族に囲まれて安らかに亡くなりたいという考え方をする方々も増えている現在。
そんな中で、既成の宗教とは無関係でありながら、なんらかの形で「魂に関わり、魂をお見送りする」同伴者と方法が必要にもなるであろう近い将来。
その時に、音楽というのは、一つのたいへん有望な「魂へのはたらきかけ」となるだろう。音楽は理屈や思考を飛び越えて、魂・命に直接共鳴する力があると、私は信じている。
そして、だからこそ、そういう種類の音楽は、やる側の意識の在りようが全て。作るのもやるのも「本気、ガチ、マジ」じゃなきゃならない。ウソ、作りごと、飾り、なんちゃって、は通用しない。
どれだけ透明に、無心になれるか。
自分自身が魂の裸で勝負しなきゃならない。
身が引き締まるとともに、めちゃ燃えますよ、自分。
私はそのレベルの魂の響き合いをしてみたい。そういう次元で音楽やりたい人間だって、近頃よくわかってきたから。そういう人間で在れるように精進することはすごく楽しいから。
だから、いま改めて、私がこれまで本気で作った曲がかなりの数、「死・終わり」にまつわるいいシーンを彩っていることに気づいて、おお〜、これは天分といってもいいんじゃないか〜!?と思ったんです。はばかりながら、おそらく天分の一つではあります。
それがいつ、どういう形で実現されるのか、またそれが作曲になるのか、演奏になるのか、両方なのかはわからない。でも確かな一つの方向として、私は向かっていくんだと思います。