人の感情を動かすお仕事
私は昔、作曲家として、テレビアニメやドラマの後ろで流れるBGM(サウンドトラック)を作る仕事をしていました。
業界用語では「劇伴」(げきばん)と言います。
劇の伴奏音楽、という意味ね。
なぜそういう音楽が必要かというと
ただ映像が流れているだけでは、登場人物の心情やそこで起こっていることの雰囲気、空気感、臨場感、盛り上がり・・・といったものが表現しきれず、なかなか感動を作れないから。
しーーんとした中に、淡々と台詞がやりとりされるだけになってしまいますからね。
悲しい場面では悲しみを掻き立てるような音楽。
サスペンスでは緊張感高まる音楽。
戦闘場面では勇ましい音楽。
感動のクライマックスでは情感高まる音楽。
それがあるからこそ、見ている人は、その音楽の意図したような感情を引き出されて
ワクワクしたりドキドキハラハラしたり、涙が出たり感動したりするわけです。
それをやるのが「劇伴」というお仕事。
別の言い方をすれば「人の感情を動かすお仕事」です。
作曲家や制作側は、どういう音を使えばどういう感情を引き出せる、ということを、もちろんわかってやってます。
楽器編成、音色、和音、メロディー、テンポ、リズム・・・その組み合わせで、あらゆる感情を引き出すことができます。
そういう意図で、そういう音楽を流すと、ほぼ自動的に、皆さんそういう雰囲気に持っていかれて、そういう感情になる。
そういうものなんです。
だから、映画やドラマなど、たくさんの感情を動かされるエンターテインメントが成立しているんですよね。
ちゃんと制作側が意図した通りに、ワクワクドキドキハラハラ、お涙、感動・・・皆さん乗って楽しんでくださいます。
それはそれで素晴らしい体験であり、日常生活に必要なことであり。
何もおかしくはない。一理です。
しかし。
人の感情を動かすのは簡単
しかしもう一つ、別の角度から見るならば、こういうことも言えるのです。
みんな簡単に持ってかれるよね〜〜
人の感情を誘導するなんて簡単!
ひっくり返せばそういうこと。
それはそれでけっこうヤバいでしょ!?
そんなにアッサリ乗せられて大丈夫なの??
って、私なんかは思うことがあります。
音楽だけに限りません。
音楽ですらそうなのだから、言葉、映像、その他諸々、あらゆる手段で、人の感情を意図した方へ動かすなんて簡単なんです。
作る方はわかってやっているということです。
まずは、その事実を受けとってみるといいでしょう。
さらに私はその後、心理カウンセラー/講師として約10年くらい活動している中で
人がいかに「思考」というものに無自覚に呑まれて、持ってかれて、動かされるのか、
っていうこともさんざん研究してきているから
この「感情」と「思考」のトリックについては、通常以上にかなーりシビアに見抜く目を磨いています。
そういう目で見るとね、
流れてくる情報に対する皆さんの感情と思考の動かされっぷりっていうのがもう、予想以上すぎて
あまりにもアッサリ素直に、しかも流す側の狙い通りのところへちゃんと動いてらっしゃるんで
「そこまでアッサリか!?」と唖然としてしまうことが多くなってきました。
つまり、あらためて
ああ、人というのはこんなにも
呑まれ、動かされ、
持っていかれるものなのか・・・・
という、動かし難い現状を突きつけられた気がしているのです。
それを否定はしません。
驚きとガッカリの重みを感じながら、遠くから眺めて
「で、私はどうする?」を考えるしかありません。
持っていかれてしまう理由
ではなぜ、そんなにもアッサリ持っていかれるのか?
というと、根本的にはここなのです。
自分の感情と思考を
自覚できていない
扱えていない。
ということなのです。
自覚できていないから
扱えていないから
「自力」がはたらかないのです。
自分に重心が取れずに持っていかれるのです。
本当に内側から湧き上がる感情なのか
刺激で動かされているだけの反応なのか
本当に自分でそう思った考えなのか
どこかで吹き込まれた考えなのか
自分の感情と思考に丁寧につき合うという訓練を重ねて、感情と思考を自覚的に扱えるようになると、
その違いと見分け方もわかってくるのだけど
そういう体験や訓練がないままでは、とてもじゃないけどそんなことは無理なんですね。
だから、何が自分で何が自分じゃないのか、ごっちゃごちゃになり
一時的に刺激された感情で揺れ動き
大昔に刷り込まれた思考のOSのまま
古い回路で走り続けていく。
そんなことも多々起こるのです。
それで何が困るのかと言ったら
結局いつも、外側の事象に揺れ動き、不安と恐怖に突き動かされ、
表層的な感情でアップダウンを繰り返し、自分の軸がわからず心はいつもテンヤワンヤ・・・
そんな自分自身にギリギリ一杯になると、
ふとしたきっかけで今度はそれが他者へ向いて、責めと糾弾へ・・・
やってしまってから今度は自責と罪悪感、諦めと無力感・・・
そんなループを繰り返し、いつも傷つき傷つけ合う、怖くて痛い世界がずっと続くことになるのです。
それでは何より望んでいるはずの「安心」や「心の平安」はいつまで経っても得られません。
アッサリ持っていかれた末に、自らの大切なものを失うことにもなりかねません。
それはものすごい人生の時間の損失、デメリットであるはず。
集合無意識の進化へ
そしてもう一つ、そういう意識状態でグルグル回っている人たちが多ければ多いほど、
日本人全体の集合無意識もまた、いつまでも旧来の重く暗い轍(わだち)をグルグル回って進化できない、ということになります。
私はそっちこそが本当にデメリットだと思う。
集合無意識の状態こそが、現実の社会の状態を作るわけなので、
これからの日本が、社会がどうなっていくかは、ひとえに私たちの集合無意識がどれだけクリアになっていくかにかかっているのだと私は考えています。
世の中がこの先、新しい方向へ、より希望ある明るい方向へ変わっていく可能性と、そうでない可能性が、五分五分なのだとして
どっちを選びたいの?と言ったら、
やっぱり希望ある明るい方を私は選びたいです。
そのためには、旧来の重さにまみれた集合無意識がクリアになって進化していく必要があり、
そのためには私たち一人一人の意識がクリアになっていくことが必須なのです。
で、「意識がクリアになる」とはどういうことなのかというと、それが
自分の感情と思考を
自覚できて、扱える
という力にかかっているのです。
この「扱えている自分」という意識のリアリティを高めること。
その自分が「常中」して生きていること。
それが「意識がクリアである」ということです。
その意識を中心に置いていれば、雑音的な感情と思考の渦に呑まれずに、その時々の本当のベストを選択していけます。
そうやって生きられる一人一人が増えていくことが、これからの世界が明るい方へと向かっていくための鍵です。
私の仕事
だからこそ、私自身は
少しでも多くの皆さんが
自分の感情と思考を
自覚できて、扱える
という力を育てて磨いていけるような、的確で効果的なプログラムを開発して広げていきたい。
これが重要な課題であり、私がやるべき仕事ではないかと感じるようになりました。
「ビリーフリセット」というメソッドは、その力を確実につけることができる理論と知識と実践の体系です。
それによって「扱える力」を磨いた人が、今度は別の誰かに、それを伝えていってほしい。
その人たちが使いやすいようなプログラムを、豊かに揃えて整えていくのが私の仕事だと思っています。
今の世界、今の日本に必要なこと。
これからの新しい時代、新しい社会を作っていくために必要なこと。
それを作っていく志ある人たちのために、必要なこと。
ビリーフリセットは、そこを見据えています。
デカい話のように見えて
実はとても地味で地道なことです。
地道なところを耕していくことが
私たちのできることなのですから。
自分の感情と思考を自覚できて
意図的、自覚的に扱えて
より良い未来を選択していける
そんなクリアでタフな日本人が
一人また一人と増えていくよう願って
私は私にできることをしていきます。