親に対してモヤモヤしている人は多いです。
なんでああしてくれなかったの
なんであんなだったの
なんでこうじゃなかったの
なんでそんなふうに
なんでそういうこと
なんで
なんで
なんで!!!
責めちゃいけないと思いつつ
でもやっぱり止められない
あの時悲しかったことが
どうしても許せない
あの時してほしかったことを
どうしてもあきらめきれない
今さらしょうがないとわかっちゃいるけど
でもやっぱり整理がつかない
もういいじゃないかと言っている私と
よくない!よくてたまるか!
と強情張ってる私
ゆるすべきだ
ゆるさなきゃ
と思うほどに
ゆるせない自分が出てきて
そんな自分がまたまた嫌になって
こんなに寛容になれない自分なんて親不孝者
とまた自分を責めて・・・
そんなかんじのあなたにおくりたい
今日の言葉
ゆるさなくていい。
尊重してみよう。
尊重とは、
敬意を持ってほっておく
ということです。
あなたが「ゆるせない、ゆるせない」と思うのは
「ほんとはこうあるべきなのに!」
と強く思っているからかもしれない。
もっとやさしく
もっと愛情深く
もっと笑顔で
もっと家族を思って
もっと共感してくれて
もっと賢く
もっと冷静で
もっと先見性をもって
・・・・とかとかとか
そうあってほしかったんだよね?
でもそうじゃなかったんだよね。
その通りだ。
そうじゃなかったんですよ、実際。
そこをそのまま認めちゃえ。
あの人は
やさしくする余裕もなく
愛情なんてものは自分も知らず
笑うことよりガマンすることの方が慣れていて
家族より自分のことで精一杯で
共感するという回路が発達せず
愚かで
感情的で
頭が古くて
・・・・とかとかとか
そういう人なんですよ。
たぶんその通りなんでしょう。
しょうがないよね。
それが精一杯のその人の器であり
そういう人なんですよ。
ため息をついて認めちゃいましょう。
でもね、大事なことは
そんなあの人も
あの人の器の精一杯で、一生懸命だったこと。
そして、あの人なりに
最善をやっていたつもりだったこと。
それが子供のあなたから見て
いかに変でも、ひどくても
バカでも、迷惑でも。
あの人は、そうせざるを得なかったのです。
そうとしかできなかったのです。
それをそのまま。
あの人がやったこと
あの人がそうであったこと
それをそのまま
あの人が引き受けた人生なのだと
そういう人生をゆくと選んだ
一つの魂なのだと
その人生に
敬意をもって
その人生を選んだ魂に
敬意をもって
眺めてみよう。
心の中で
相手の襟首つかんだ手をスッと離して
一歩退いて
いっぺん頭を下げてみよう。
「ああ、あなたもまた
一人の魂ですね。」
それが「敬意」です。
そしてまた
その親の元に生まれ
あの家族のなかで翻弄され
満身創痍になったかもしれないあなただけど
これも私が引き受けた人生なのだと
こういう人生をゆくと選んだ
私も一人の魂なのだと
思ってみてください。
「すごいね」
「よくやったね」
「がんばったね」
って自分に言ってあげてください。
敬意とは
自分が素晴らしいと思えるものだけに
注ぐものではありません。
素晴らしいとは思えなくても
好きとは思えなくても
共感できるとは言い難くても
いろんな感情は置いといて
ただ事実を事実として
大切にする心です。
相手のものを相手のものとして
大切にする心です。
あの母の人生は
あの母のものです。
あの父の人生は
あの父のものです。
あれでも、です。
ああ、あれでも
あの人生を歩いている
一人の魂なんだ。
どんなに苦しくても辛くても
その荒波にとびこんでもがいてきた
一人の魂なんだ。
あの人も
私も
お互いに、ね。
て考えると、
なんかちょっと崇高な気持ちになりませんか?
これが敬意です。
そして、だからこそ
あの人がそうあることに
手出しも口出しもしない。
ただそのままにしておく。
あの人がそう生きていることを
ただほっておく。
敬意のまなざしをもって
ほっておく。
それが「尊重」ということです。
そして、
私がほっておいても大丈夫な
あの人であることを
黙って信じている。
それが「信頼」ということです。
尊重と信頼こそ
本当に深くて広い愛であると
私は思います。
もう、あの人を変えようと
がんばる必要はありません。
もう、あの人を変えられない自分を
責める必要はありません。
あの人も、私も
大きな流れの中にいて
これでいいのです。
敬意をもってほっておく。
この心の距離感ができたら
本当の意味で「自分軸の人生」がはじまり
次元を上げたところで
一人の大人としての「親孝行」が
できるようになります。