このところ2回にわたって「いのちの逆回転」というテーマで書いてきました。
「自分なんかいない方がいい」というような
無意識に自分の存在そのものを否定している「存在否定ビリーフ」のお話です。
前回までの記事
1.生きるのがしんどい人は「いのちの逆回転」をやっている
2.「いのちの逆回転」はどうして始まるか
続き物みたいになってますが、
さて、今日はいちおう最終回のつもりです。
存在否定ビリーフの根底には「私は親に愛されていない」という誤解があると、前回書きました。
ですから、存在否定ビリーフをリセットするためには「愛されていない」という誤解を解く必要があります。
その誤解を解く突破口は
「親はあれでも精一杯だった(愛のつもりだった)」
「私はこれでも愛されていた」
「親がああなのは、私のせいではなかった」
という3つのポイントが腑に落ちることが、けっこう重要になります。
けれど・・・
中には、どう〜〜〜しても「親に愛されていた」なんて思えない人もいるかもしれません。
いろいろ大変な親の元で、大変な幼少期を過ごした人もいますからね。
わだかまりの方が大きくてどうにもならないことだってあります。
そうであっても仕方のないことです。
まずは、そう思えない自分のことを責めないであげてください。
自分が親に愛されてたなんて、とても思えなくても。
あの親を愛するなんて、とうてい考えられなくても。
親子の縁?ナンボのもんじゃ!?
愛ってナニソレ?食べれるの?
と思っていても。
それでも、悪いとか悪くないとか、ないんです。
ただ、そのまま。
「そりゃそうだよね〜」って自分に言ってあげましょう。
その上で。
考えてみよう。
いったい「愛される」ってなんでしょう?
愛されるっていったいなんだ?
今まで私たち、「愛される」というと
なんとなくこんなイメージを持ってきたのではないでしょうか。
・好きになってくれる
・やさしくしてくれる
・思いやってくれる
・大事にしてくれる
・尊重してくれる
・見てくれる
・関心をもってくれる
・守ってくれる
・わかってくれる
・話を聞いてくれる
・ものをあたえてくれる
といったイメージ。
総じて何かを「くれる、もらえる」ようなイメージですよね。
何かをして「くれたら」「もらえたら」
「ああ、愛されてるなあ〜」と思える
ということになります。
逆にいうと、上記のようなことを
「してもらってない」と思った時
「愛されてない!」と思う、ということでもありますね。
てことは、私たちは無意識に
「愛される」とは「してもらえる」ことだ
という定義で考えているということなのかもしれません。
愛される=してもらえる
してもらったら、愛。
してもらえなかったら、愛じゃない。
てことですよね。
しかしですね。
世の中には
・好きになってくれる
・やさしくしてくれる
・思いやってくれる
・大事にしてくれる
・尊重してくれる
・見てくれる
・関心をもってくれる
・守ってくれる
・わかってくれる
・話を聞いてくれる
・ものをあたえてくれる
なんてことがほとんどできない親御さんもいらっしゃいます。
なぜかというと、その親御さん自身、そもそも自分の親からそんなふうにしてもらったことがないとか、自分の苦しい問題でいっぱいいっぱいだとか、生活に追われてそれどころじゃないとか、そもそもそういう回路がないとか、そこにはいろんな事情があるからです。
で、そうであったとしても、それは仕方がないことなのです。
そうとしか育つことができなかった、
そとしか生きることができなかった、
そういう流れに巻き込まれるしかなかった、
・・・のだから。
これはその人自身の罪科(つみとが)ではなくて
人間ゆえの業(ごう)ともいうべきものです。
その業に、世代を超えて気づかず呑まれていってしまう、人間というものの弱さと悲しさでもあります。
「もらうこと」をあきらめる
そういうわけで、はっきり言って上記のようなことができない人だってザラにいるので、残念ですが、ホントにあなたの親御さんもそれができない人だったかもしれません。
この際、ここはもう
いっぺん絶望しましょう。
ムリなんですよ、あの人には。
どんなに「こうしてほしかったのにー!」
と悔しがっても
「せめてこれくらいは!」と欲しがっても
あの人にはムリだったんです。
そもそもそれをする回路がありません。
回路のないところに電気は通りません。
あの人にそれを望んでも、ムリ!
そして、あの親がそうできなかったのは
子供のあなたが「可愛くないから」「ダメな子だから」「いらない子だから」じゃありません。
あの人は理由があってそう「しなかった」んじゃないんです。
まったく無意識に、自覚なく
ただほんとに「できなかった」んです。
あなたがどんな子であろうと。
あなたがどうであるかは全く関係なく、
あの人は、あの人の事情と理由で
それができなかったのです。
そこ、ちゃんと切り離そう。
いや、でも、私がもうちょっと◯◯になったら
私がもっと◯◯できるようになったら
◯◯してあげられるようになったら
もしかしたら、してくれるようになるかもしれないもん!
変わるかもしれないもん!
だからもう少し頑張ってみる!!(涙目)
って、またまたがんばろうとしちゃうかもしれませんが、
まあ、やめときー。
そうやって、くれない相手に向かって欲しがる闘いをし続けている、それこそが人生を苦しくさせている原因です。
犬に向かって
「ニャー!と鳴いてよ!ニャーと鳴いて香箱座りしてくれるまで私は腹筋1000回し続ける!」と言ってるようなものです。
だって、犬だよ?
そうやってる間に、あなた自身の人生の時間はどんどん過ぎていくよ?
腹筋1000回できる力、他に使ったらとっくにもっと幸せになってるかも。
ていうか「私が腹筋1000回したら犬も猫に変わるはず」っていうその仮説、ホントですか?
どういうおまじないですか?(笑)
どうーしても親には猫であってほしかったあなたの気持ちもわかるけど、
でも犬だったんだねー、残念ながら。
しょうがないね。
関西風にいったら「しゃーないな。」というやつ。
それでもう、終わりにしましょう。
そして、大事なこと。
あの親は、犬としてあれで幸せなんです。
幸せな犬なんだから、そのまま犬として尊重してそっとしといてあげましょう。
もうあの親から「もらおう」とするのはやめましょう。
ガックリ絶望して
スッパリあきらめましょう。
これはとても建設的な絶望です。
「あきらめ」とは「明らかに見る」だという説もあります。
「あの親にはその回路がなかった」ということを、明らかに見て、認めること。
あの親からもらいたがる自分の欲求から、すっと手を放すこと。
そこから次の建設的なステップがはじまります。
参考記事:「しょうがない」は癒しの言葉
じゃあやっぱり「愛されてなかった」のか?
じゃあ、そうだとしたら、やっぱり
「私は愛されてなかった」ということになるのか?
というのが次の問いです。
愛される=してもらえる
という定義を元にして考えていると、
たしかに
「してもらえなかった私はやっぱり愛されなかった」
ということになってしまいます。
ほらーー!
やっぱり、愛されなかったんじゃーん!
ウチの親、あたしのことなんか愛してなかったじゃーーん!
とフンガイすることになってしまいますが、
ちょっと待って。
そもそもホントに
「愛される」というのは「してもらえる」ことなんでしょうか?
ここからが思考の次元上昇するところです。
わたしね、かならずしも
愛される=してもらえる
じゃないな、と思ってるんです。
もちろん、それも含まれる。
けど、そんなのはもっと大きな「愛」の中でいったら、ほーんの一部のこと。
私たちは「愛」という言葉についての意味づけを、とっても狭い範囲でしか考えられていない。
ほんとは愛っていうのは、私たち程度のちっちゃい頭では考えられないくらい、広くて大きいものなんじゃないかな。
私はそんなふうに思っています。
愛とは「いていい」ということ
今私が考えられる範囲で、私自身気に入っている「愛の定義」は
愛とは「いていい」ということだ
というもの。
存在していい。
そこにいていい。
この状態を「愛」という。
これが私の好きな愛の定義です。
さあ、愛の定義を「いていい」ことだとすると
あなたはあの家に、最低限、いることが当たり前とされていませんでしたか?
最低限、赤ちゃんの時はお世話してもらって、死なないようにしてもらってきましたよね。
戸籍届けてもらって、幼稚園や学校に行かせてもらって、たぶんご飯も最低限食べさせてもらってきましたよね。
「お姉ちゃんなんだから、お兄ちゃんなんだから」とちっちゃいうちからアテにされて、「妹弟の世話して当然、いて当然」みたいに扱われてたとしたら、当然それは「いる」前提だよね?
てことは、当然「いていい」ってことだったんじゃないかな。
お父さんは家族とろくに口もきかずに「仕事仕事」と外ばっかり出歩いてたかもしれないけど、なんのためにそんなことしてたかというと「家族のため」だったりする。
子供達には全然関わらなかったかもしれないけど、「オレの家族」という認識だけは絶対的に持っていたりする。
だとすると、子供である自分は「いて当然」ということであり、てことは、もう当然すぎるくらい「いていい」ということではなかったのでしょうか?
お母さんは何かっていうと「ああしろこうしろ」と怒る。いつも自分にばっかり当たってくる。そんなあなたは残念ながら、お母さん自身の不安と不満の「当たられ役」になっちゃってた可能性もある。
それはたいへん残念だったけれども、あなたは「当たられ役」として当然のようにそこにいると思われているからこそ、そして「この子なら当たっても大丈夫」と思われていたからこそ、お母さんは安心してあなたに当たることができる。
そういう意味では、逆説的だけど、あなたはお母さんにとって「すごくいてほしい人」であり、当然「いていい」人だったということになる。
あなたにとっては大迷惑な話だけどもね。
ね?
いろいろ考えると、あなたはこの家に「いていい子」だったと言える証拠がたくさんみつかるのではないでしょうか。
そうです、ちょっと口に出して言ってみて。
「私はいてよかった。」
いてよかったのよ。
いろいろしんどかったかもしれないけどね。
「そんなー!いるだけじゃ話になんないよー!」って思うかもしれないけどね。
ほんとに「いるだけ」が腑に落ちると、「いる」ってすばらしいことなんです。
それが「存在」であり「Being」の力です。
私たちの自我の思考は、「いるだけ」の力に確信がもてないから「する・やる」のDoingに走りすぎて消耗することになるのです。
実は「いる」というのは、自己認識にとって大事な「核」となるものです。
宇宙は私に「いていい」と言っている
で「愛される」の話に戻しましょう。
愛とは「いていい」ことだ
という定義で考えたら、
あなたはいてよかったのだから
つまり愛されていた、ということになるわけです。
もっと広い意味でね。
これでも、ね。
あんなでも、ね。
たいへんだったけど、ね。
それでも、私はいてよかった。
きっと「愛」なんて言葉には「はあー??」と思う人も
「いてよかった」と言い換えると、少し納得できるかもしれないね。
私は愛されていた
を
私はいてよかった
に言い換えてみましょう。
じんわりと味わってみてね。
そして、最後の話。
それでも、どうーーしても
「あの親は私を愛さなかった」
「あの親は私にいていいなんて思っていなかった」
ということにひっかかってるならば。
もうね、人間のこと考えるの、やめよう。
確かに私たち、肉体を持った人間として、人間の親から生まれてきたわけだけど
実は、肉体の親なんてのは、ちっちゃい範囲の話だから。
もっと上の親は宇宙だから。
私たち人間の身体を作っているのは、宇宙の物質であり
私たちを生み出した元は宇宙の力なんです。
人間や地球やあらゆるものの命を動かしているシステム、それを宇宙というのなら、あの親が自分という人間を生むことになったのも、自分という子供が大人へと育ったのも宇宙の力。
肉体の親である「あの親」は宇宙レベルからみたら「仮の親」です。
だから、たとえ本当に
あなたがあの親からは愛されていなかったとしても。
あの親はあなたのことをちっとも「いていい」なんて思っていなかったとしても。
そうだったとしても。
それでも今日この時まであなたが生きてこられて、今、ここで息をしている。
ということは、宇宙から見たら、あなたは「いていい」ということになるんだと、私は思っています。
たとえあなたの親がどんなに親としての機能を果たしていなかったとしても、それ以外の人やご縁が入れかわり立ちかわり現れて、なんか知らんけど、なんかのはからいでここまで生きてこれた。
だから、今あなたがいる。
そういうことですよね。
ということは、宇宙のはからいで、あなたは「いていい」ということになるんじゃないでしょうか。
宇宙というもっと大きな「親」は
今ここに私を存在させている。
だから、宇宙は私に
「いていい」と言っている。
たとえ私が
どんなにできなくても
コケてもスベッても
ドロドロでも、ボロボロでも、グダグダでも。
それでも私は今もなお
ここに「いる」。
ということは
宇宙は私に「いていい」と言っている。
「いていい」
それが愛ならば。
私は宇宙に愛されている。
だから、大丈夫。
そんな「愛」の感じ方もあります。
宇宙が私に「いていい」と言っているように
私も
自分の中のどんな自分にも
ただ「いていい」と言おう。
自分自身がどんな自分にも
「いていい」ということができたら
実はすべて解決なのです。
本当のところ
それが「愛」のすべてだからです。
肉体レベルの親が
私を愛したのか、愛さなかったのかとか
「いい」と言ったのか、言わないのかとか
そんなことはどっちでもよくなるのです。