本当の自己肯定とは、
自分を肯定するのに、他人を根拠に使わないことです。
他人を根拠、とは
人がほめてくれたから。
人がいいと認めてくれたから。
こんな自分を好きだと言ってくれる人がいるから。
人にはない、自分だけの良さがあるから。
だから、自分はOKだと思える。
これで自信が持てる。
・・・ということです。
それ、いつも「人」がついてまわってますね。
もちろん、これも、
自己肯定のとっかかりとしてはいいでしょう。
自己肯定の一種として、決して悪いものではありません。
自己肯定に慣れていない場合は、
まずそこからでも、受け取ってみるのはいいかもしれませんね。
でも、もっと、その先があります。
他人を根拠に使った自己肯定は、
その他人がいなくなったら崩壊することになります。
だって、じゃあ
ほめてくれる人がいなくなったら?
認めてくれる人がいなくなったら?
好きだと言ってくれる人がいなくなったら?
自分が人とたいして代わり映えがしないことがわかっちゃったら?
そしたら、何が残りますか?
あいかわらずダメな自分?
それだったら、もともと
自分で自分を肯定していたわけじゃないんだから、
他者による肯定、ですわね。
ホントのところ、ちっとも自己肯定じゃないじゃんね(^ ^)
自分で自分を信じる「自信」じゃなくて
実は、他人の言葉を信じてる「他信」じゃんね(^ ^)
自己肯定とは、自分が自分を肯定することです。
ただ、自分だけで。
自分だけを根拠として。
こういう私で、これでいい。
私がこうなんだから、私はこれでいい。
私が生きてるんだから、これでいい。
私がこう思うんだから、それでいい。
私がやりたいんだから、それでいい。
私が私の気持ちわかってあげるから、それでいい。
誰がなんと言おうと、天地がひっくり返ろうと
私は私を生きている。これでいい。
完全自己完結です。
完全自己完結でいいんです。
自分さえよければいいんです。
「そんな、自己チューじゃん!傲慢じゃん!
もっと人のこと考えなきゃダメじゃん!?」
て言われるんじゃないかって?
いやいや。
この自己完結ができた人がはじめて、
ここをベースにして、他人のために出かけていけるのです。
本当に無心に、人のために何かできるのは、ここからです。
好かれたいから、よく思われたいから、
そうすべきだから、そうあるべきだから、
人のためにするのは
我慢や犠牲、義務や消耗でいずれ袋小路に入ります。
そういう「人のために」をやっている時、
どこかで「本当はそうじゃない自分」を隠していますね?
なんとなく「装ってる感」があるな、というかんじを
心のどこかでわかってる自分がいるのでは?
それをやっていると、いつか辛くなって
結局のところ、いつか
「もういい!自分も人もだぁーいっきらい(泣)!!」
と、ちゃぶ台ひっくり返す日がくるはずです。
つらいね。
だから。
まずは自分からでいい。
「人のために」なんて、そのあと。
自己完結の自己肯定をベースにするならば
自分が楽しいから、自分の幸せを分けてあげたいから
人のためにしてあげることができるのです。
自分がやりたい!と思ったことが、
すなわち「人のために」、自然になっているものです。
自分が「自分に正直」だから、
他人が「自分に正直」をやってても
「あ、そう」と受け止められるのです。
我慢や犠牲がないから、消耗しません。
もっとうれしいこと、もっとハッピーなことへ・・・と
新しいアイディアがどんどん湧いてきます。
自分のことを考えるのは悪だ、罪だ、傲慢だ、わがままだ!
という、昔ながらの国民的刷り込みが存在しますが。
もうそんな刷り込みはチャラにしちゃった方がいい。
自己完結の自己肯定から、
新しい人生と世界は始まっていきます。