公開中の映画「フラメンコ・フラメンコ」を見てきました。
カルロス・サウラ監督は、もう何十年来フラメンコにこだわって映画を撮っている方。私にとっては、1980年代の「カルメン」「血の婚礼」以来久しぶりのサウラ作品でした。
今回はストーリーやドラマは何もなく、美しいセットと照明の中で様々なフラメンコのアンサンブルを、絵のように次々と見せていく、いわば映像詩のような作品です。踊りも演奏も、小編成あり大編成あり。メリハリのある構成で色々な曲を楽しむことができました。
フラメンコに思い入れて数十年、現在80歳のお年を召した監督だけあって、いわば「フラメンコ的なものの神髄」「フラメンコの命とはこれだ!」みたいなものがガツンと伝わってきます。
踊る人、歌う人、演奏する人、手拍子する人・・・すべての人からにじみ出てくる生命力を、美しい光と影の中に配置し、巧みな映像で捉えている点ですばらしい映像作品と言えるでしょう。
しかし、その映像美ゆえに、やむを得ず生じる一つのジレンマが・・・。
それは、音楽が「ライブ」ではないというところ。いえ、もちろんちゃんと演奏者が演奏しているところが映っているんですよ。ギターも歌もピアノも打楽器も。しかし、流れている音は、そこで演奏しているリアルなその音を録音したものではないということです。
音楽は音楽で別に録音して、後からなるべく音楽に合うように映像を編集しているということです。いわゆる「あてぶり」なのか「アフレコ」なのか「プレスコ」というのかわかりませんが、そういうやつです。
見ていると、弾いているピアノの指と鳴っている音が違っていたり、「そういうこと弾いている時にその顔はしないでしょ(^ ^;; 」と突っ込みたくなるところがあります。おそらくギタリストだったら、ギターの指を見ればそう思うはず。
いや、いいんですよ映画だから。役者さんが演技している普通の映画なら、全然そんなことは気にならないんです。当たり前ですからね。
しかし、これは本物の芸達者な音楽家がその演奏を披露しているわけなので、どうしてもね。「今そこで演奏しているその音が聴きたい!ライブ映像であってくれたらさらに感動するのに・・」という欲が出てしまうわけです。
どうやって録音したものに合わせてもう1回弾いたんだろうとか、何度も撮り直ししたんじゃないか、とか、それでよくあのテンションで演奏できるな、とか・・・余計なことまで想像してしまいました。
非常に臨場感あふれるセッティングで撮られているだけに、気になりだすと気になってしまって。
しかし、それは叶わないこともよくわかります。「映像美」を見せる映画なのであって「ライブ記録」じゃないんですからね。監督の撮りたい映像美とライブ録音は、絶対に両立し得ないものであることがわかります。
なぜなら、演奏をきれいに録音するにはたくさんマイクを立てなければいけませんからね。演奏者があまり隣り合っているときれいに録れないので、配置や距離も問題になるでしょう。周りにはマイクスタンドが林立し、いろんなケーブルが床を這い回ることになります。
その状態では、「絵のような映像美」にはほど遠くなってしまいます。やっぱり見た目にはどこにもマイクもケーブルもあってほしくない。美しく完璧な構図で撮りたい。非常にわかります。
実際、流れている音楽はきちんといい音で録音されたすばらしいものなので文句ありません。きっとちゃんとしたスタジオで周到に録音されたのでしょう。
だから、映像も音楽も両方生かすギリギリの選択がこれなんだということは、非常に理解できるので「仕方がないんだ。これが最善なんだ。良くやってると思うよ。まあいいんじゃないか。目的はちゃんと果たしてるんだし。視点を変えればいいんだよ。」と自分に言い聞かせたりして・・・。
まあ、そんなにこだわるんだったらちゃんとライブを見に行くなり、他のライブ映像を見るなりすればいいので、そんなこと以外は本当にすばらしく、その世界観をぼーっと味わって、楽しい時を過ごすことができました。
それにしてもスペインの人は男も女も濃いこと!なんかこう、生命力の根本から、日本人とは次元の違う濃さがあるよな〜と感じます。
スペイン的なもの、フラメンコ的なものを深く感じるにはとってもいい映画だと思います。