私は、土日はだいたいセミナーや個人セッションなので、
月火をお休みにしています。
今日の午前中は音叉と瞑想でセルフ・メンテナンスしました。
心身のエネルギーの調律というかんじですね。
心や直感を扱うので、自分の状態をクリアにしておくことは
心がけています。
そして、今日は冬至&新月「朔旦冬至」とのこと。
なんとなく気持ちの区切りをつけたいような気分になるものですね。
新月といえば・・・
「新月や満月にお願いごとをする」というのが
静かに流行っているようですね。
もちろんそのこと自体にいい悪いもないですし、
それが自分に合っている方はいいと思いますが、
私個人的には、それはやりません。
「新月満月のお願い」だけではなく
いわゆる初詣とか、
神社仏閣へ行って「お願い」することも含めて
私は、神仏や大いなるものに対して
「お願いする」ということに違和感を感じるからです。
こうなってほしい、こうであってほしい、
これを手に入れたい、これを実現してほしい・・・
という自分の望みを叶えてくれるように
「お願いします!」
「こうしてください!」
「アレをください!」
「あの人がこうなるようにしてください!」
「なんとかしてください!」
というのは、私、したくない。
「なんか違うよな〜」っていう思いがあって。
私はどの宗教宗派でもありませんが、
「祈り」とは「意宣り(いのり)」である
という考えが、とてもしっくりきています。
意宣りとは
つまり、自分の「意図」を天に「宣べる」こと。
「決意」を「宣言」することです。
「こうしてください。」
じゃなくて
「こうします!よろしく!」
ということ。
そういえば「よろしく」を漢字で書くと「宜しく」。
ここにも「宣」という字が入りますね。
私は、天というか、宇宙というか、全てというか、
そういうものに
「こうします!よろしく!」
はよくやります。
手を合わせるとか、
何かモノや場所に向かうとか、
そういう形にはこだわっていません。
ただ自分の中の静寂と一つになって
その「意志・意図」を宣言して天に投げる。
「こうします!」「こうなります!」
そして「よろしく!」
それをやると、とてもシャキッとして気持ちがよいです。
「よし!」という気になります。
これが私にとっての「祈り」だな、と感じています。
そして、これは「肚を決める」感覚でもあります。
天に意図を宣べるということは、
自分の肚を決めるということ。
自分が肚を決めるから、自分が動くのです。
意図し、意志を投げるから、投げた方に自分が進むのです。
結果として
天が動いてくれたように見えるかもしれないけれど
おそらくこれは協同作業ではないかと。
そして、自分と全てを運ぶ大きな力を信じる。
大きな力とは、
自分の意志と天の意志が一つであるところであり
全体そのもの。
そこに向かって意を宣べて、投げる。
これが私の「祈り」の解釈であり
私の好きなやり方です。
もちろん
「お願いしたい、なんとかしてほしい」
と望むのは人の情というもの。
そのことが心の安らぎと感じる時は、
それがベストなのでしょう。
どれも一つの考え方であって
どの考え方を選ぶかは自分次第なので
いい悪いはありません。
多くの人が、そろそろ来年に向かって
「意」を新たにする頃。
冬至の新月ということで、ふと
「祈る」とか「天」とか
そんなことを思ってみました。