「正解幻想」から醒めて自分の感性を信じる。それを「自信」という

「どうすればいいですか?」

っていう質問がある。

このありふれた質問は、一見何の問題もない。

そう聞いて返ってきた答えが、実際役に立つことももちろんある。

でも、その上で、しかし。

私はこの言葉を聞くと、なんだかムズムズするのだよね。

本質に届ききれないもどかしさ。

「どうすればいいですか?」を無自覚に口にすることで、とても大切なものを落としてしまっているのではないか。

今日はそこから思索を広げてみたい。

どうすればいいですか?の奥

この質問の意図するところはだいたいの場合、「うまくいく方法を教えてください」ということだったりする。

その奥には

「こうすればうまくいく!という結果保証付きのマニュアルがほしい」という気持ちがあったりもする。

そしてその奥には「世の中には正解と不正解がある」という漠然とした思い込みの存在も見え隠れする。

つまり「正解をやればうまくいくし、不正解をやっちゃうとダメになるのだ」という感覚である。

だからこそ「どうすることが正解なのか?」という質問になるわけだ。

その「正解」とやらを一生懸命なぞろうとする。

同時に「不正解」をやってしまうことを、ものすごく恐れたりする。

うっかり「不正解」をやってしまったら、うまくいかなくてダメになってみんなに嫌われて孤独になってお金がなくなって家がなくなって路頭に迷って野垂れ死に・・・くらいまで恐怖の未来予測が芋づる式に連なっていく。

だから、何かするにあたっては「こうした方がいいんだよね?こうするべきなんだよね?」と脳内マニュアルを必死で検索し

それが見当たらなければ、確かそうな誰かが言っている「正解」を新たに仕入れて、「そうすればいいんですね!」と安心しようとする。

逆に、「こうしちゃダメなんだよね?これはいけないんだよね?」と、誰が言ったかもよくわからない脳内禁止令を自分にかけて、「不正解」を恐れるあまり行動をストップしてしまったりもする。

つまり自分の判断や行動をするにあたって、いつも外側の答えを探し、正解か不正解かに汲々とする。

これ、学校のテスト勉強のしすぎだと思うのね。

あまりにもそういう学校思考が、無意識の底から貼り付いている。

現実に正解はない

でもね、現実はたった一つの正解なんてないんだ。

誰かがやって結果的にうまくいった方法や答えは確かにある。

けれどそれが、今自分が目の前にしているその現実、その事態にとって、本当に最善なのかどうか、そんなことはわからないのだよね。

だって、すべての現実は誰一人、何一つとして同じものはない。

無数の要素が絡み合って「それ」が目の前に起きているわけだから。

いちばん正確な事実は、「一寸先は未知」ということだけだ。

 

たしかに、先輩やメンターのような存在の人は、「どうしたらいいですか?」の質問に対して、「これはこうなので、こうしたらいいよ」とか言ってはくれるだろう。

それはけっこう的を得ていたりもして、ありがたいものだ。

でもそれは、その人の経験と感覚から言っている「自分だったら・・」の一つの事例にすぎず、その人の脳がとらえたその現実にすぎない、ということもわかっていた方がいい。

つまり、人の言うことはあなたじゃないし、それはべつに「正解」じゃないんだ。

学校の生徒さんみたいな「正解幻想」を離れることが、これからの時代、自分を生きるカギである。

「どうすればいいですか?」を卒業しないと、自分が始まらない。

 

「じゃあどうすればいいの?」って?(笑)

「で、自分はどうしたいの?」

じゃないだろうか。

まずは自分に聞いてみよう。

正解幻想のデメリット

ものごとには「正解」があるはず!っていう正解幻想。

これのデメリットは、「未知の局面に弱い」ということになるだろう。

わからないこと、やったことがないこと、経験がないこと、先が見えないこと。

こういう白紙の未来に対して、「じゃあどうする?」っていう時に、手も足も出なくなってしまうのだ。

「正解」は自分じゃない誰かが持ってるはず、って思っているから、正解とか基準とかを自分の外に探すしかない。

何が「正解」なの?どうすればいいの?

こういう時はアレをやるんだっけ?

こう言うとよいんだっけ?

こういうことやっていいんだっけ?

それってしていいのかな、ダメなのかな・・・

そんなことばかりに頭が空回りしてしまうのだよね。

で、なんだかわからなくなって「どうしようどうしよう」とただ上滑りしてしまったりする。

結果、白紙の未来に対して、自分じゃ判断できない、決断できない、行動できない、ということになる。

判断の根拠を、どこかにある(と思っている)はずの「正解」に求めている限り、そういうことになるのだよね。

それを今風に言えば「他人軸」という。

正解幻想のメリット

そのかわり「正解幻想」にはメリットもある。

それは、一定の枠の中で与えられた場所で、枠の中の秩序を乱さず、安全に生き延びること。

その枠の中で制定されている「正解」に準拠していれば、枠から守られる・・・ということには、いちおうなっている。

与えられた「正解」通りにしていれば責められない、怒られない、仲間外れにされない。

与えられた「正解」に従っていれば、「自分はどう?」なんてめんどくさいことは考えなくていいから楽だ。

自分が判断して決めているわけじゃないから、責任を問われなくてすんで楽だ。

その枠の中においては、とりあえず大事故にはならないだろう。

枠を作っている側も、制定した正解に準拠してくれていれば、「自分が!」なんてめんどくさいことを言い出す者が出なくて楽だ。

お互いの「楽」を持ちつ持たれつする世界も、それはそれで継続するし、そこに「安心」を感じるのであれば、そこに居続けることも悪いことではない。

好みの問題だ。

支配と依存
御恩と奉公

みたいな旧型のピラミッドシステムを維持するには最適なのが正解幻想。

多くの人が疑問も抱かずそれを継続できていたのが、これまでの時代だった。

未知に道をつけるのはカン

しかし。

本当に目の前に「どうするんだコレ!?」という事態が現れた時、ホントにどうします?

「正解」を与えてくれていたはずのシステムが、実はそれほどアテにもならず自分を守ってもくれないことがわかった時、どうします?

何を信じ、何を頼りにする?

令和も2年になり、時代はますますそんな局面が多くなってくる。

これまで確かだと思っていたものが、実はそんなに確かなもんじゃなかったことも、多くの人が感じ始めるだろう。

じゃあ、どうやって
なにを決めたらいいの!?
どうしたらいいの!?
あーー正解を!!

そんなふうに渇望して彷徨う人も増えていくだろう。

だからこそ、ここからは価値観のシフト。

既存の正解に従うのではなく、一瞬の未知に向き合うのだ。

「正解幻想」から醒めて、自分自身の感覚を取り戻すのだ。

カンがいちばん頼りになる

ここからはあくまで「私の場合は」の話ね。

私の場合、いちばん日常的に「どうするんだコレ!?」という場面に立つのは、カウンセリング/コンサルティングをしていて、クライアントさんを目の前にした時。

誰一人同じ人はいない、同じケースはないその時その場で、どうすればいいのかなんて全然わからないのだよ。

状況を読んで次の一手を出す、その根拠は「カン」である。

カウンセリングに「正解」はない。

選んだその道が、結果として「正解」になっていくのだ。

 

カウンセラー講座の受講生さんから「この時どうしてそういう判断をしたんですか?」なんていう質問を受けた時、私は

「カンですね。」って答えることが多い。

そうするとみんな「え~~~」と苦笑いする。

「なんだ、カンかよ」って。たぶんちょっとがっかりしてる。(笑)

 

そうなのだ。カンと思いつき。

一瞬一瞬がそれの連続。

正解マニュアルというのは、「こうすればこうなる」という普遍的な法則であり、「こうするとうまくいく」という「結果保証」だといえるだろう。

カウンセリングという生身の人間を相手にする場において、必ずそれが当てはまるかどうかは常に未知であるし、結果の保証はない。

やってみないとわからない、というのが真実の姿だと思う。

 

それはなにもカウンセリングだけの話ではない。

人生全体が、本当のところ「やってみないとわからない」ものではなかったか?

だからこそ、やってみて、つど判断して次の手を決める、ということの連続。

それが結果として「必然と納得の道のり」になっていくのだ。

 

もちろん、そのカンがはたらくためには、前提となる知識や経験の蓄積が必要っていうのはある。

でも、「知識 = 正解」ではない。

知識や経験が、自分の体内を自然に流れているくらい当たり前になったところに、カンが降りてくるのだ。

「降りてくる」・・・つまりカンというのは、自分一人で生み出したものではない感覚。

カンやひらめき、直感、インスピレーションとはそういうものである。

 

自分という存在の土壌に向かって、もう一つの次元から放たれた何か。

それをインスピレーションと言ったり「天啓」とも言ったりするのだろう。

そういうカンがいちばん頼りになる。

だからこそ、それをキャッチできる自分でいることがとても重要なのだ。

自分のカン、思いつき、そんな「気」がする・・とか、肚がそう言ってる・・・といった、「感覚」の領域。

そういうものをちゃんと感じとり、理解し、言語化できるようになると、そっち側の力が使えるようになる。

それが、いちばん心強い自分の相棒になってくれる。

自分の感覚を信じる

「理性」は既存のデータしか扱わない。

未来予測するにしたって「こうだったから、こうなるはずだ」と、根拠はいつも過去にある。

しかし「感性」は、白紙の未来に突然、点を描くことができる。

「あ、これだ!」

根拠は何かといったら「自分がそう感じたから」だ。

 

感性、感覚。

そんな気がする、とか

・・のような感じがする、とか

ピンとくる、とか

ふと浮かんだ、とか

思いついた、とか

これまでの既存の学校社会、会社社会は、そういうものをバカにしてきた。

 

「そんなの、ただの思いつきでしょ?気のせいでしょ!」って。

「思いつき」をそんなにバカにしてるってことだよね。

「気」= 幻想、だと思ってるってことだよね。

 

「自分の感じなんてアテにならない!」って。

アテにできないくらい鈍感化して使い物にならなくなっちゃった人がそう言ったんだろうね。

それだけ自分のことを信じられないってことだよね。

 

私にしてみれば「思いつき」ほどすばらしいものはない。

思いつきはインスピレーション。

そして「気」こそ本質にアクセスする鍵だ。

アテにしても大丈夫だと思えるくらい「感じる力」を取り戻すこと。

自分の思いつきや感覚、「気」や「カン」を、自分が信じること。

 

それができたら、人生全体が流れに乗っていくだろう。

自信を持って生きられるようになるだろう。

だって、自分の感覚を自分が信じるのだから。

それを自信という。

 

それが、価値観が多様化し、既存のシステムが融解していくこれからの時代に必要なこと。

 

「大丈夫」な生き方

「え?それだとうまくいくんですか?」

いいえ、うまくいくことも、うまくいかないこともあるでしょう。

でもそれって、これまでもそうじゃなかったかな?

どんなにマニュアルに従い、人の言う「正解」通りにしてみたって、うまくいくことも、うまくいかないこともあったはず。

どこへ行ったって、どっちもあるものだ。

それどころか、こんなに一生懸命「正解」といわれたことをやり続けたのに、どういうわけかどんどん苦しくなってるかも・・・ってことはないだろうか?

 

自分の感覚を信じていられたら、うまくいかない時だって、自分の感覚で判断して対処できるから「大丈夫」なのだ。

わかりもしない先々のことをどこまでも妄想して心配グルグルになってないで、「その時はその時」と腹をくくれるのだ。

マニュアルが尽きたところでなんとかできる人間と、マニュアルが尽きたら万策尽きる人間との違い。

それが、自分の感覚を信じられるかどうかの大きな違いである。

感覚を信じられないのはなぜか

「とは言っても・・・自分の感覚がよくわかりません。信じるなんて難しいです〜」

それは、本来存在しているあなた自身の感覚・感性のまわりに、まるでウロコのようにビッシリと「ビリーフ」が貼り付いているからだ。

ビリーフとは、

・他者から植えつけられた定義と解釈
(◯◯とはナントカなのだ)

・他者の顔色と空気を元に、自分流に決めた定義と解釈
(・・てことは◯◯っていうことだよね!)

でできている。

それを何の疑問もなしに信じ込んで無意識化しまっているのがビリーフである。

そのウロコを全身に纏い、そのウロコの言う「正解」に従うことで、この世の中を安全に生き延びられると思っている。

つまりウロコとは「鎧(よろい)」でもある。

守るために必要と思い込んでいること。

鎧こそが自分であり、それがないと自分じゃなくなる、生きていけなくなると思っているから、おいそれと脱げない。

鎧でビッシリ覆っていたら「感性」は出てくる余地がない。

だから「わかりません」になる。

わからないから、ますます「正解」の鎧が手放せなくなる。

そういうループになっている。

存在と感性を取り戻す

だからこそ、感性の力を取り戻そうと思うなら、「ビリーフを外す、リセットする」が必須になるのだ。

「ビリーフリセット」とは、自分に貼り付いている幾多の定義と解釈の鎧(よろい)はがしである。

それは当たり前に思い込んでいた「正解」を一旦疑ってみるということでもある。

自分という本体と、後からつけてしまった鎧(定義と解釈)が本来別物であったことに気づいていく。

それらを一瞬でいいから自分の身からはがしてみるのだ。

はがしてみた時に残るのは誰?

鎧の「中の人」である。

今ここに生きている生命、存在である。

その存在が、今ここで感じていること。

その声が、やっと聞こえてくるだろう。

それがあなたの「感性」である。

 

ビリーフリセットとは、存在のリアリティと感性の力を取り戻すためにある。

ビリーフを信じるのではなく、自分の感覚を信じる。

ビリーフを拠り所にするのではなく、自分の存在を拠り所にする。

そっちにシフトした時

根拠のない、白紙の上に存在する「自信」と、「大丈夫」という安心が、ここにあったことに気づくだろう。

その土台に一瞬一瞬表れる「感性」の声を聞き、方向を定める。

その上で、「理性」で検討・具現の道を描き

身体を動かして「行動」する。

自分を生きるとは、そういうことではないだろうか。

 

感性の力を取り戻すワークショップ

「感性」についてはこの方が大先輩!!
私の師匠・岡部明美さんと私、大塚あやこのダブル講師によるワークショップを開催します。

岡部明美
  • 心理カウンセラー&セラピスト
  • ワークショップ・ファシリテーター
  • LPL養成講座主催
  • 企業研修講師
  • 作家
  • 東海ホリスティック医学振興会顧問

岡部明美・大塚あやこ3daysワークショップ

2020年7月3日(金)〜5日(日)

東京九段下・ホテルグランドパレス

〜時代の転換期を超え、ネクストステージへ〜

詳細はこちら

(主催:一般社団法人ビリーフリセット協会)

 


この記事を書いた人

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大塚 あやこ

心理コンサルタント/講師/音楽家
一般社団法人ビリーフリセット協会 代表理事
ビリーフリセット・クリエーションズ株式会社代表取締役
 
東京芸術大学作曲科卒業後、アーティストのツアーサポートや編曲、アニメやドラマのサントラ作曲等を手がけ約20年活動。
音楽での燃え尽き体験をきっかけに、心理カウンセラーへ転身。
非合理な思い込みを外して本来の力を解放するオリジナルメソッド「ビリーフリセット®」を提唱し、人生の転機に直面した人を新しいステージへと導く個人セッションや講座を開催。「ビリーフリセットで人生が変わった!」という人多数。
カウンセラー養成講座も開催し門下の認定カウンセラーを多数輩出している。
現在はカウンセラー養成の枠を超えて「リーダーズ講座」として長期講座を開催。経営者やリーダー層からの信頼を得て、企業研修にも発展。企業向けオンライン講座「Udemyビジネス」で「はじめての傾聴」動画講座が登録者1万8千名を超えるベストセラーとなっている。

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