お花も、木も
植物はみな生き物だから
自然に成長します。
土があって、太陽があって、お水があれば。
肥料があれば
なおいいのかもしれないけど。
もちろん
よりよく成長するための環境条件
というのはあるでしょう。
成長を阻害する要因を取り除けば除くほど
爆発的に成長する
という話も聞いたことがあります。
しかし、そうではなくても
痩せた土地でも、険しい環境でも
それはそれで、そこでの精一杯を
植物は生きて成長するんだと思います。
動物も生き物だから、
ほっといても自然に成長します。
「大人になった」とされた後でさえも
体が見た目大きくなることとは別の意味で
常にいのちは成長しているんじゃないかと思います。
そして
成長することと老いることの間に
境目は実はないのではないか。
成長するということは
老いていくということであり
老いていくということは
成長し続けているということでもあり
成長し続けた先に、死というゴールが
とりあえず見かけ上ある、
ということなのだと思います。
つまり、植物も動物も
自然の摂理として成長するのです。
生きるということは
成長するということです。
ならば人間も同じなんじゃないか?
と思うのです。
なのにどうして人間は
わざわざ
「成長しなきゃ!」と力むんでしょうね。
もっと成長しなきゃ
自分を成長させるためにがんばる
成長するためにアレもやってコレもやって
成長させてくれる職場
成長させてくれる人
うん、私もなかなか成長したなあ、満足満足。
とか言ってるの
私たち、けっこう好きですよね(笑)
そうやってると
前に進んでるかんじがするのよね。
もちろん
自分が成長する喜びや
他者の成長を見守る喜びというのも
人間が自然に持つ喜びの一つではあるでしょう。
それを否定はしません。
しかしあまりにも
「成長しなきゃ!」と力を入れている時
その思いの裏には
「ダメになる恐怖」が表裏一体で
ピタッと貼り付いていることも多いものです。
ほっといたらダメになる
そのままじゃダメになる
上を目指さないとダメになる
止まったらダメになる
努力しないとダメになる
なんだろうね、この恐れ。
成長 = 善 であり
成長するために力を入れることが
まっとうな人間の証であるみたい。
てことは、裏を返せば
成長できなかったら「ダメ人間」になる
ということになります。
これを恐れてるんですよね。
だから「成長しなきゃ!」
なんですね。
なので、私はこう言いたくなります。
それって、ほんとかなー?
私たちが当然のように思い込んでいることに対して
「セルフつっこみ」を入れてみるのは
なかなか楽しいです。
ちょっと頭をリセットしてみよう。
べつにそんなに力入れて
「成長!成長!」いわなくたっていいかもしれないね?
生きてるってことは成長しているってことなんだから
自然に成長してるんじゃないか?
植物や動物がそうであるように
人間も生き物であるならば
生き物としての力を信じて
ほっといたって成長してるって
考えてもよくないか?
一つの考え方ですけどね。
きっと大丈夫。
ほっといたって、人間生きてるだけで
いろんなことに出会って
いろんな経験して
いろんなこと考えて
いや、考えてなくたって
なんにもしてなくたって
食べて出して寝て
それだけでも
生きてるってことは
たぶん成長してる。
それが一時的にどんな姿であっても。
それはその時の、成長の一コマなんだ。
いつだって
姿なんてものは「一時的」の連続だから。
まずはそうやって
自分のいのちを
信頼してみるのはどうでしょうね。
かなりほっとするんじゃないかな。
あとは「成長」の定義を何におくかですよね。
なんか、社会が定めた「立派な人間像」に成ることを
「成長」というのだったら
それはそれで特殊な力を入れる必要が
あるのかもしれないけれど。
でもそれは所詮、
誰かがいつのまにか定めた「一例」にすぎないこと。
そんな「人間像」は
誰かが一つの価値観で作った
「人工」の完成図だから。
そんな「人工」の完成図を目指すなら
やっぱり相応の「人工」の成長の努力を
しないといけないのだろうね。
その努力のノウハウに関しては
世の中に山ほどあるでしょうから
あえてそれをすることに挑戦したいのだったら
やってみるのもいいでしょう。
一定の枠の中での「成長ゲーム」に参戦するのも
人生の一つの楽しみ方かもしれません。
でもそれができないからといって
成長してないわけじゃないと思います。
生き物として、
誰もがちゃんと成長してるんじゃないでしょうかね。
赤ちゃんが子供になって
青少年になって中高年になって
お年寄りなってやがて死んでいくのだから。
だれもがみんなそうなんだから。
そのあいだみんな
ちゃんといろいろあるんだから。
成長してないわけがないと思うよ。
・・・てなかんじで
それくらい力を抜いても
いいんじゃないかなと、思います。
そして、あえて言うなら
「成長しよう!させよう!」と力を入れることより
「成長を阻む要因」を取り除く方が
実は効果的なんじゃないか、って
私はそんな気がしています。
自然の力はすごいです。
もともと
いのちはすごい力を持っているのです。
それを「もともと」にさせておかないアレやコレやが
人間界にはいっぱいあって。
それはもう、外側にも内側にも
いっぱい仕掛けがあって。
それに縛られて私たちは
すでに自然な成長ができにくくなってる
っていうのはあるかもしれません。
まるで針金でしばられ
石に敷かれて、日陰に置かれて
かろうじて生きのびている
ヒョロヒョロの苗木みたいにね。
そしたら、それ
どかしてあげたくなるよね。
日なたに出して、石どけて、針金ほどいて
ふかふかの土に植え替えてお水をあげたら
あとはほっておいたって
だんだんと根も葉っぱも
ちゃんと伸びるようになるでしょう。
やがて花も咲かせるようになるでしょう。
ほっといたって、ちゃんと成長するでしょう。
そんな「成長」を信じるやり方も
あるんだと思います。
でも、じゃあ
針金でしばられ、石に敷かれて、日陰に置かれて
かろうじて生きのびているヒョロヒョロの苗木が、
そのままで成長がないか、ダメなのか
と言ったら
そんなこともないと思います。
それはそれで、その環境で
その木なりに精一杯生き延びていることが
成長になっているのだと思います。
生きているっていう、それだけで
そうやって過ごす時間が
おそらくなんらかの成長になっているのでしょう。
いのちの深い理由(わけ)は
他者には計り知れないもの。
そのいのちを信じて任せるしかない。
そうなると究極、
成長してたって、してなくたって、
べつにどっちだっていいんじゃないか?
ってなってきます。
うん、どっちだっていいと思うよー。
そもそも「成長」ってなに?
っても、なってきます。
うん、なんだっていいんじゃないかなー。
そんなことより
生きてるんだから
生きてることを信じよう。
だって
いのちはちゃんと灯(とも)っている。
その灯ったいのちが
きっと大丈夫なのです。
今年もおそらく
あなたもわたしも
気づいても気づかなくても
自然にかなり成長しているはずです。
だって、今年も1年生きたんだもの。
成長してないわけがない。
よいお年をお迎えください。