1.後悔ってなんだろう?
「後悔したくない」
「後悔のないように」
「後悔してからじゃ遅い」
なんて言う人は多いね。
みんなとっても後悔が嫌みたいだね。
後悔はそんなに
しちゃいけないことなんだろうか?
後悔って、後で悔しがることだよね。
後で悔しがるって
そんなに悪いことだろうか?
やってみた後だから
わかることがある。
やってみたからこそ
見えることがある。
それも真実。
だからこそ後から「ああ〜!」と思って
それが悔しさになるんだよね。
でもそれって
そんなにしちゃいけないことだろうか?
悔しい思いというのは
そんなに避けなきゃいけないことだろうか?
いいじゃない、べつに
悔しかったら悔しがれば。
どうして「もう終わり」みたいに
言われるのかな。
悔しかったら
次もっと工夫して
またやればいいよ。
ものすごく悔しかったからこそ
ものすごい飛躍を成し遂げることだってある。
違ったんなら
方向転換したっていいじゃない。
方向転換できずに
そのままずっと悔しさを抱いて生きたって
べつに悪いことじゃない。
クヨクヨしたかったら
いつまでもクヨクヨしてたってべつにいい。
クヨクヨするのが嫌なんだって?
実際クヨクヨしてみれば
意外と大丈夫だよ。
クヨクヨしたとしたって
24時間、365日ずっと
クヨクヨし続けられる人はいない。
てきとうに
食べて飲んで笑ったりとかも
してるよ、たぶん。
すでに私たち、いろんなことを
そうやって抱きかかえながら
生きているんじゃない?
2.「後悔したくない」の裏に何がある?
「後悔のないように」という言葉が
「全力でがんばりたい」という気持ちの
別の表現であるならば
そんなふうに言ってみるのも
いいかもしれないね。
でも、本当に「後悔」を
それほどまでに嫌がっているとしたら
あなたは
どんどん動けなくなっている可能性が高い。
その時
「後悔したくない」は
やらないための言い訳と地続きだから。
「やって後悔したら終わりだから」
と言って
飛び込まないで
踏み出さないで
一生やらずに過ごして
最後に「なんでやらなかった」と
後悔することはないのかな?
結局後悔するんだったら
いったいどうすれば
よかったんだろうね?
★
「後悔」をそこまで嫌がる心には
わけがある。
実は
「やって後悔したくない」の後ろには
もっと本当の思いがある。
「失敗したくない。」
「失敗して、自分がダメだったと感じたくない。」
とうこと。
結果が出て
それが自分の望んでいたようなものではなかった時。
そうすると
その結果というのはあなたにとって
「やっぱり自分がダメだった証拠」になる。
「やっぱり」というのがミソで。
「やっぱり」ということは
どこかで元々、基本的に
「自分はダメなんじゃないか」
という思いがあったからこそ
「やっぱり」と思うんだ。
図星的中、になっちゃうんだよね。
だから、刺さって痛い。
その
「ああ、やっぱり自分はダメだった、
足りなかった、無能だった」
という敗北感を味わいたくないということ。
それを味わいたくなくて
「後悔したくない」と言っている。
それは後悔とは違うんだよ。
後悔ではなく
敗北感、無能感、という。
「後悔したくない」は
ちょっときれいに回り道した言い方かもね。
「敗北感、無能感を感じたくない」なんだよ。
ほんとのほんとはね。
(注:ほんとはもう一つ「罪悪感」というのもあるんだけど
これ出すと話がさらにややこしくなるので、今回は除外ね)
じゃあさ、
敗北感、無能感、を感じるのは
そんなにいけないことなんだろうか?
敗北感とは「敗北」ではなくて
「敗北」したかのような「感」じ、なんだ。
そんな感じがしてるだけ。
無能感とは「無能」ではなくて
「無能」であるかのような「感」じ、なんだ。
そんな感じがしているだけ。
自分は敗北したんじゃないか。
自分は無能なんじゃないか。
そんな「感じ」がしただけ。
だって、もともと
「自分はダメなんじゃないか」って
最初から思ってるんだから。
敗北や無能は「ダメ」の証拠なんだよね。
またその証拠を突きつけられたと
感じてしまっただけ。
自分でそんな「感じ」を持って
その「感じ」に
自分でグサっと刺さっているだけなんだよね。
なんでそういう「感じ」が
そこまで心に刺さるかっていうと
「敗北」や「無能」が
ものすごくいけないことだと
思っているからだよね。
そうなったら終わりのような
気がするからだよね。
「気がする」だけで
ほんとにそうかどうかは
試したことがなくてもね。
今、とっても怖い話をしているよ。
怖くても大丈夫。
ここ、怖くても目を背けない人は
とっても「勇者」だよ。
アッパレ!
続けましょう!!
3.それって「終わり」なの?
じゃあさ、仮に
敗北、というものがあったとして。
無能、というものがあったとして。
「敗北」はそんなに
いけないことなんだろうか?
「無能」はそんなに
いけないことなんだろうか?
あたりまえじゃないかーっ!
って反射で一蹴しないで
落ち着いて考えてみよう。
一回大きく息を吐いて、ね。
敗北したら終わり。
無能になったら終わり。
ほんとに終わりなの?
「終わり」ってなんだ?
死ぬってこと?
これまで死にましたか?
今まだ死んでないよね。
おそらくその「終わり」っていうのは
「絶望」のことだね。
なぜ絶望するのかといったら
自分が究極に無力でちっぽけで
どうにもならないっていうことに
打ちのめされるからだね。
絶望したくない。
絶望はつらい。
絶望はこわい。
そこまで絶望したら
もう消えるんじゃないか。
たぶんこれが究極の恐怖だよね。
それが「終わり」の意味だよね。
たぶんこの恐怖はね。
ほんとに「命がなくなる」恐怖ではないんだ。
「自我がなくなる」恐怖だね。
自我とは、自分の頭の中で作っている
自分という人間のキャラ設定のこと。
頭の中で作っているだけのものだから
もともと大した根拠はない。
つまり「リアル」じゃない。
リアルじゃないからこそ
「消えるー!なくなるー!終わるー!」
と言ってこわがるんだね。
いや、もともとないから大丈夫(笑)。
そういう
「自分でキャラ設定した自我」
が消えても残るものがある。
それが命。
ただここにいる、ある、いのち。
その命が
確かに今ここにあることがわかったら
究極に大丈夫であることがわかる。
なんだ、大丈夫じゃん。
もしもしー!
死んでますかー?
いや、生きてます。
そう、大丈夫なのよ。
絶望しても大丈夫。
絶望してみるといいよ。
大丈夫だから。
敗北しても大丈夫。
大丈夫だし
だってべつに敗北じゃないから。
無能でも大丈夫。
大丈夫だし
だってべつに無能じゃないから。
4.その基準、どこにあるの?
そもそもさ
何が何点だと「敗北」なのかな?
何が何%だと「無能」なのかな?
ちゃんと測って言ってます?
その基準値て、
どこにあるのかな?
誰が決めました?
それ何ゲームなの?
どこかに
「世界無能検定・公式ルールブック」
みたいのがありますか?
あなたが「ある」と思っている
その「基準」て、実は
たまたまあなたの親や
まわりの大人達が持っていた
「好み」の問題であり
狭い世界の決め事にすぎない。
その程度の基準なんて
吹っ飛ぶような広い世界が
外にはもっとあるんだから。
思考のノイズをより分けていけ
ただここに生きている命。
それがあるから
どっちにだって選択していいし
後悔だってしたっていいんだ。
後悔してもいい。
しなくてもいい。
どっちだって大丈夫なんだ。
ほんとはね。
「後悔しちゃいけない」なんていうのは
どこかの他人の声の一つにすぎない。
したってべつにいいよ。
「失敗したら後悔するもんだ」
なんてのも
他人の声の一つにすぎない。
べつにしなくたっていいよ。
頭に飛び交う
無数の他人の声。
その声を取り込んで右往左往する
思考のノイズをより分けていけば
どっちにしろ
何一つ変わらずここにある自分が
ちゃんとある。
それこそが
「大丈夫な自分」なんだ。