急に冷え込んで、秋の長雨・・・ですねえ。
長雨という言葉から、有名な短歌を思い出しました。
花の色は うつりにけりな いたづらに
わが身世にふる ながめせしまに
長雨に桜花の色は移ろい、私自身もつまらない物思いにふけっているうちに盛りの時を過ごしてしまった。
小野小町のこの歌は、桜であり、春のことですが、「長雨」からの連想で。
そしてさらに連想は平安時代に飛びます。
昔の人って一日をどんな風に過ごしてたんだろう。
お百姓さんや奉公人のような人達は、
作業に手間ひまかかる分、忙しかったかもしれない。
でも宮廷の人達なんてずいぶん暇だったんじゃないだろうかなあ・・・って。
今みたいな複雑・多岐なシステムも物も情報もなかった時代。
日が昇ってから暮れるまで、いったいどんなことをしていたんだろう。
もちろん、それなりに宮廷勤めのお役目もあるでしょうが、
それにしたって今じゃ考えられないくらい、
ゆったりまったりしていたんじゃないのかな。
話は変わりますが、ずいぶん前にバリ島に旅行したことがありました。
はからずも、ちょうど現地の土着宗教の習慣で「ニュピ」という
バリ暦の元旦のような日に当たっていたのです。
その日は戒律上、働くことや外出することが禁止されていて、皆が祈りを捧げる日。
外国人観光客といえどホテルの外には出られない状況でした。
(現在はどうか知らないけれど)
ウブドの山の懐のホテルで、遠くから聞こえてくる祭礼の声を聴きながら、
ただただ、まったりと過ごした日が印象深いのです。
で、何の話かというと、
あの一日の時間の流れ方が、なんとゆっくりだったか!ということ。
全く科学的ではないのですが、私の実感としては、
時間のエネルギーの流れ方って、場所によって違うような気がしてならないのです。
なんと言っても東京は流れが速い、速い!
することがいっぱいあって忙しいとか暇だとかはあまり関係なく、
時間はどんどん進んで
「あれー、もうこんな時間!?」と思うことが多いような気がするんです。
それで、たまに実家の鎌倉に滞在したりすると、あれやこれや色んなことをしても
「あれー、まだこんな時間!?」と思うことが多い。
そんなことを言うと母は
「何言ってんの、時計はどこも一緒じゃないの」と言うのだけれども、
うーむ、そうなんだけど、そうじゃなくて・・・
土地の磁場と、人間のエネルギーと、時間のエネルギーの相互関係って言うのかなあ。
そういう、デジタルじゃない「時の感覚」っていうのがあると思うんですう。
その私の勝手な仮説によれば、
人や物や機械やシステムなど、
あらゆる大量のモノがものすごい密度とスピードで動いている土地では、
時間のエネルギーもものすごい速さで回っている。
逆にその密度とスピードがゆるい土地では、時間のエネルギーもゆったり回っている。
ホント、全然科学的じゃないんだけども。
で、それが、バリという土地ではさらにゆっくりで、
しかもそのまた「ニュピ」という、特別に島中が静かに内省する、何もない一日は、
こよなくゆっくりの、長い「時間」だったなあ、と思い出したわけです。
でまた、何の話だったかというと、平安時代。
それでいくと、平安時代の時間の流れ方っていうのは、
あのバリの一日以上にゆっくりだったかもしれないなあ、と思ったんです。
まだまだ国中が静かだったでしょう。
時計もメディア情報もない。
一日に動くエネルギーの量じたいが微々たるものでしょう。
入ってくる感覚と言えば、「今そこにある」景色やものや人。それだけ。
そんなゆっくりとした時間と、少ない情報と刺激。
そんな中だからこそ、「今そこにある」景色や自然やものを、
さぞ、ゆっくりじっくり味わっていたんじゃないか、と思うのです。
だから、微細な自然の動きに心を動かして短歌なんかを詠んだり、
「もののあはれ」なんていうデリケートな感覚を深めたり、
恋心をしゃれた言葉で歌に託してみたり・・・できたのかもしれません。
そんな「長くゆっくりな時間」と、「淡いものを深く感じる感覚」
今の私達にはずいぶんと難しいものになってしまったけれど、
時々思い出せたらいいなあ、と。
秋の長雨にそんなことを思った夜でした。
あ〜 長かったねえ。
すみません。
ここまで読んで下さって、ありがとうございます。