あなたは、自分のことをどんな人だと思っているでしょうか?
自分がこの自分のことを、どう思っているか
これを自己認識といいます。
これが人生の生きやすさや、幸福度、自己肯定感、ストレス状態など、いわゆる「メンタル面」を左右する非常に大きな土台となっています。
カウンセリングでたくさんの方の例を見ていると、「こうあらねばならない自分」と「そうなれない自分」との間のギャップに苦しんでいる人が実にたくさんいらっしゃいます。
勉強や仕事ができて、人の役に立てて、業績上げられて、しっかりして、努力家で、優しくて、思いやりがあって、気配りできて、部下や家族に頼られて、人に好かれて、器が大きくて、いつも笑顔で、話がおもしろく、人のことを応援できて、人を怒らせず悲しませず喜ばせることができて、夢に向かって全力疾走して・・・などなどなど。
そんな人であらねばならないのに。
男たるもの、夫たるもの、父たるもの、上司たるもの、リーダーたるもの、
女なんだから、妻なんだから、お母さんなんだから、◯◯職なんだから、長男なんだから、お姉ちゃんなんだから
これくらいはできて当然なのに。
そんな思いがあります。
それはそもそも
自分が進んでそうなりたいかどうか、というよりは、
だって周りはそうなれと要求するでしょう?
そうじゃなくちゃダメでしょう?
やっぱそうしなきゃいけないんでしょう?
という、なんかしらんけどそうでないと他人や周りから許されないようなかんじ。
だから一生懸命そうなろうとしてきた・・・そんなかんじではないですか?
でも実は、本当の私は・・・
ムリ!そんなのムリ!
私、そんな人じゃないし!
そんな器じゃないし!
て、イヤな気持ちになってませんか。
そこまでできるわけじゃないし、そこまで役に立てるわけじゃない、失敗することもある、気が利かないこともあるし、けっこう気が弱いし、イジワルなこと思っちゃうし、嫉妬しちゃうし、すぐ怒っちゃうし、おもしろい話もできないし、けっこう人に冷たいし、実はワガママだし、夢なんかべつにない、怠け者だし、だらしないし・・・・などなど。
たいしたことないカンジの自分。
そんな感覚はないですか?
つまりここには
そうであらねばならない自分像(大) > 本当の自分(小)
という2つの自己認識に、めっちゃ不均衡が生じているわけです。
この不均衡が、ストレスやしんどさの元です。
そしてそれは、もうちょっと言うと
極力そうであろうとがんばって見せてる外向きの顔 > 誰にも見せられない自分のヤバイ中身
という構図でもあります。
そうなんです、「本当の自分」と聞いて
「うっ、ヤバイ!」と感じる方、けっこういるんじゃないでしょうか。
ちっぽけでたいしたことなくて、とても人には見せられないような、もし見せたらきっとみんながっかりして離れて行っちゃうんじゃないか・・・というような、そんなイメージ。
そんなかんじがあるとしたら、
それがあなたの本当の「自己認識」ということです。
だからこそ、そんなちっぽけな「本当の自分」をカバーするために、そうでなくなるようにがんばるんだ!と「外側の自分」をがんばるんです。
これを私は「エビ天」にたとえています。
周囲から期待されているであろう、「こうでなければいけないんだろう」と思って「そうなろう」としている、見せている自分。
これは天ぷらでいったら「衣」の部分。
だけど、ほんとはそんな立派じゃない、ほんとは全然たいしたことないんだ、ほんとの自分は・・・と密かに隠している自分。
これは天ぷらでいったら、「エビ」の部分。
「あらねばならない自分」と「本当の自分」のギャップが大きい人の自己認識というのは、いってみれば、衣だけブワッブワに大きくて、中のエビが細〜〜くてちっちゃい「安いエビ天」のようになっています。
大きな車エビの天ぷらじゃなきゃいけないと思ってる。
だって、親も周りのみんなもそういうエビ天を期待してるでしょ。
ほんとは伊勢エビだったら、もっとみんなも喜ぶでしょ。
だからなんとかがんばって
とりあえず車エビみたいに
そこそこ見えるようにはしてるけど。
実はそれ、衣なの。
ほんとの私、衣の中のエビは、細くて短い甘エビなの。
こんなエビであることがバレたらマズイ!
バレたらみんなに嫌われちゃう!
車エビじゃなくてごめんなさい。
伊勢エビになれなくてごめんなさい。
まだ車エビの大きさまで成長できない。
まだできてない。
まだなれてない。
まだ車エビになれないこんな自分はダメだ。
これが「劣等感」「罪悪感」というやつです。
「自分についての悩み」というのはほぼこれです。
でもね、ここにはいろいろな「思考のウソ」が隠れているんです。
落ち着いて考えてみよう。
そもそも「自分は立派な車エビの天ぷらでなければならない」というのは本当だろうか。
だって!お母さんが、お父さんが、
みんながそう言うだもん!
そうじゃないと怒るんだもん!
嫌われるんだもん!
てことですよね。
そしたら、こんなふうに考えてみよう。
お母さんやお父さんや周りのみんなは、たしかに車エビの天ぷらが好きなのかもしれない。
でも、それとあなたが本来、車エビであるかどうかは別の話。
あなたが甘エビであることを見抜けなかった、お母さんやお父さんやみんなの目がフシ穴だって可能性はある。
だとしたら、甘エビだったあなたの責任じゃないよね。
向こうが勝手に「あなたは車エビのはずよね!?」て見てるだけなんだから。
「知らんがな」だよ。
そして次の問いかけ。
甘エビのあなたが車エビのふりをして天ぷらにならなきゃ、本当にいけないのか。
甘エビはなにも大きな天ぷらめざさなくたって、寿司とかお刺身とか他においしい食べ方があるじゃない?
芝エビだって、桜エビだって、それぞれの個性とおいしい食べ方があるじゃない?
それをわかって喜んでくれる人に、食べてもらえばいいんじゃない?
さらに次の問いかけ。
そもそも「本当の私は、細くてちっちゃい甘エビだ」という自己認識は、絶対に本当なんでしょうか?
もしかしたら、ホントは立派な車エビなのにもかかわらず、
自分で勝手に
「私は細くてちっちゃいですから。弱くて無力な甘エビですから。」
って思い込んでる可能性はない?
どうやら、これをやってる人も、すっごくたくさんいますよ〜。
便宜上、甘エビ甘エビって、なんか甘エビが劣ってるかのような書き方になってしまいましたが、そういうことではなくて(笑)
そもそも、どれが優れててどれが劣ってるということではなく、
結局、何エビでもいいのです。
「あらねば」という衣と、中身のギャップに怯えるしんどさ、いつまで続けますかってことです。
そしてさらにこれも伝えたい。
「こうでなければ・あらねばの自分」というそれ自体、幻想です。
その姿は、自分の頭の中だけに存在する幻想の自分像です。
「お母さんは、お父さんは、周りの人はきっとそれを求めているんだ!」と思い込んでしまったあなたの頭の中にのみ、「そんな立派な自分」は存在しているのです。
そんな人はこの現実の世の中に、一瞬たりとも存在したことはありません。
「衣」というのはそのことです。
その幻想の自分像を「衣」として、勝手に自分が中のちっちゃいエビになってうしろめたくなってる。
リアルに存在している自分というのは、
ただここにいる、今息をしている、このまんまの自分。
これだけがリアルです。
私たちは何エビでもいいし、
べつにエビじゃなくてもいい。
ただ、いのちの動くままに、動けばいい。
衣を脱いで、
今いる自分、
それでいいことにしたら、どうよ?
そんなふうに考えてみるのはどうでしょう。