「従う」ビリーフが刷り込まれている
「言われたことに従う」ということに関して、私たちはたくさんの信じ込み(ビリーフ)を持っています。
おそらく、日本人は特にこれ、強いんじゃないかと思います。
・言われたことには従わなければいけない。
・従っていれば怒られない。嫌われない。
・従っていれば安全。大丈夫。
・自分のことは言わずに、言われたことに従っておくことがうまくいく秘訣。
・従わないと、たいへんなことになる。
・従わないと、嫌われて居場所がなくなる。生きていけなくなる。
ね。すごくいっぱいあるでしょう。
あえて言葉にするとこれらのような感覚を持っている方はとても多いのではないでしょうか。
これぜんぶ、ビリーフです。
信じ込んでしまった原則です。
多くの人が、意識できなくてもこの原則にしたがっています。
私の「ビリーフリセット心理学」では、こういう思い込みの総体を「服従ビリーフ」と言っています。
この場合、「従う」相手というのは主に、無意識に自分より「上」だと思う存在です。
いちばん古くは親。
その他の大人、先生、上司。
夫、妻、舅、姑、親戚、ご近所。
学校、組織、世間、お上。
マスコミ、権威、えらい人。
「従わないとたいへんなことになる」
という恐怖ベースの人は
いわゆる「Noと言えない人」や、自分を殺して無理や我慢ばかりする人になりますし、
「従っていれば安全、大丈夫。」
という依存ベースの人は
マスコミの言っていることを鵜呑みにしたり、人の言ったことをすぐ信じてその通りにしてしまったりするでしょう。
「そう言うなら、きっとそうなんだろう。」
なんて言ってね。
なにその「そう言うなら」が根拠って・・(^ ^;;
根拠はきっと「だっていい人だから」とか言うんだろうなあ。。
変な訪問販売とかニセ投資話に引っかかるのは、このパターンだし、
そういうマインドが、風評やマスコミの煽りに簡単に乗せられてしまうわけです。
私も昔は「従う人」だった
なにをかくそう、私自身も若い頃はすごく「従う人」でした。
でも、ある時自分を振り返っていて、自分の中にこんなセリフが出てきたのです。
「決めてよ!従うから!」
おーっと、これは!!
私が持っていた、親に対する気持ちでした。
その時まで全然気がつかなかったけど。
ウチの親はわりと指示命令が多い方で、私は従わなければいけない状況も多かったし
親が決めることが正しいことで、従っていれば難を逃れるような、相手任せな態度を身につけてしまったところもありました。
そういう背景があって、このセリフが私の心に巣食っていたんですね。
「決めてよ!従うから!」
つまり、「従うからあなたが最善の策を提示して決定してくれ!」ということですね。
なんという依存だったのでしょう(^ ^..
や、でもこれね、組織とかでも「下の人」が「上の人」に抱きがちな感覚だったりするのよ。
従い続けて、失うものは「自分」
つまりね。
「従ってばかりいる」ということは、自らを無力な依存する側に置き続けるということになるわけです。
従わなければ!と思っている時、
無意識に、相手を「上」に見て、自分を「下」に置いているということです。
対等ではないわけです。
そして、力のある側は相手で、自分は力のない側だということになっています。
子どものうちは、いいんです。
子どもは無力な存在であり、そういう立場だから。
そして、家という場において、親は絶対的存在だから。
子どもにとっては、親に従うことは生き残りのために最適な対策なので、そうなることはある意味当然なのですね。
でも、私たちは大人になってもなお、これをずーっとそのまんま引きずってたりするんです。
親には逆らえない。
親がこう言ったら
従わなきゃいけないと思ってる・・・
でも自分はそうするのは嫌・・・
でも親に逆らうことを言ったら
いけない。
だって親が怖い。
親がかわいそう。
でもものすごく苦しい。
葛藤葛藤・・・
やがて心の中で嫌悪、反発、
しかしそんな自分に
罪悪感、鬱屈、葛藤葛藤・・・
はあ〜、ドロドロですね。
大人になってもね。
こんなことで苦しんでいる人はたくさんいます。
つまり、親という絶対的な存在の支配下にあった頃の記憶が抜けないんですね。
その上、日本の学校教育では、とにかく決められたことに「従う」ということを徹底的に仕込まれますから、
大人になってからも、いろいろな人やモノに対して、とにかく従う他ないと思わされてしまう。
「従わないとたいへんなことになる」
(恐怖ベース)
と
「従っていれば安全、大丈夫。」
(依存ベース)
に頭がヤラれてしまうんです。
しかし
これに毒されていると何を失うか。
自分です。
自分を失います。
自分のアタマを失います。
自分の感性を失います。
自分の魂を失います。
だからこそ、自分の軸がわからず、ますます人の言うことに振り回されて右往左往、パニックすることになります。
それを失ってもなお、「従うことの安全」(だと思っているモノ)が欲しければそれもいいでしょう。
しかし、本当に自立した大人として、自分の魂の望む通り生きたいと願うなら。
親を起源とした、この「服従ビリーフ」から脱却しなければなりません。
従ってばかりで心をすり減らすあなたに、贈る言葉
別に従わなくても大丈夫
と思える。
その人はその人、私は私
と思える。
いざという時は主張できる。
Noも言える。
自分の意思を実現するためなら
人の思惑と違う行動もとれる。
つまり精神的自立であり
境界線をはっきりさせることであり
いわゆる「嫌われる勇気」ですかね。
人に従ってばっかりいて、心をすり減らしているあなたに。
あえて、すごく乱暴な言い方をします。
人の言うこと
そんなに真に受けなくていいって!
あくまでも一側面から切り取ったことでしかないんだから。
その人の見解で言っていることにすぎないんだから。
自分の価値観を主張しているにすぎないんだから。
自分の経験値でモノ言ってるだけなんだから。
自分の感情を振り回してるだけなんだから。
「ああ、なるほど。
あなたはそうなんですね。」
でいいじゃないですか。
何も「私」まで同じにならなくたっていいんです。
納得できるところはして
受け入れたいところは受け入れて
違うと思うところは
スルーしていいんじゃないですか。
もちろん、人の言うことは
誠実に聞いて
受け止めてあげるのがいいでしょう。
言ってることは聞けばいい。
その人のその気持ちは
尊重してあげればいい。
だけど、
「言うことを聞く」ことと
「言うことに従う」こととは
また別。
「受け止める」ことと
「受け入れる」こととは
また別。
その人を「尊重する」ことと
その人の「望むがままに自分がする」
ことはまた別。
「言うことを聞きなさい!」
というセリフは、ともすれば
「言う通りにしなさい!」
ということと同義みたいだけど、
屁理屈言いますと
「はい、聞いてるよ。
でもそうはしないよ。」
だってありじゃないですか。
「なるほど。あなたはそうなんですね。」
と受け止めて
「でも私はこうなんです。」
と受け入れない、
だってありじゃないですか。
従うでもなく、我を張り通すでもなく、お互い最善に歩み寄れるところを探すことだって、できるかもしれないですよね。
いや、そうはいうけどなあ、
組織というのはなあ〜
会社というのはなあ〜、
現実的にはなあ〜
とか、いろいろあるかもしれませんが、その考えがそういう現実を作っている、という見方もありますからね。
そのへんは個別の事情でお考えください。
それでも、
人に従ってばっかりいて
卑屈になって
心をすり減らしている方たちがいるなら
その皆さんに向かって
ちょっと叫んでみたくなりました。
もう一回いうね。
人(親)の言うこと
そーんなに真に受けなくていいって!
言ってるだけ、言ってるだけ!