ある本にこんな言葉が載っていました。
愛には4つの側面があります。
許容、受容、承認、そして尊重です。
ああ、まさに。
私、この「愛」の解釈好きだな〜。
前々から思っていたんです。ほんとの愛って
「好き好き大好き♡愛してる〜」っていうのとは
ちょっと違うんじゃないかって。
「愛」というのは「好き」の最上級ではないのではないか、
と思うわけです。
「好き」があればかならず「嫌い」がある
もちろん「好き好き大好き♡」も
愛の一つの形態ではあるかもしれないけれど
あくまでも大〜きな全体のうちの、ほんの一部に過ぎないと思います。
なぜなら
「好き」があるところには必ず「嫌い」も生じるからです。
私たちが「好き」と思う時、それは
「自分にとって心地良いもの、好ましいもの」
であるはずです。
ということは、その裏には
「自分にとって心地悪いもの、好ましくないもの」だってあり、
そういうものは私たちは「嫌い」と思うものです。
感情というのは、必ず2つの極の間で揺れ動いていますから
「好き」があるところには対極として「嫌い」があります。
簡単に言えば、
「あなたのことがだぁ〜い好き♡」という感情は、
あくまでも自分にとって心地良いと思われる要素に対して抱いているのであり、
いずれ自分にとって心地悪い要素が見えた時には、もう
「そんなあなたなんかキライ!」などと言いだすかもしれません。
「好き」と「嫌い」の感情の二極で見ている限り
いつでも「好き」と「嫌い」は入れ替わるのです。
事実としては、その人は最初から
ただ「そういう人」としてあるだけです。
そこを「好き・嫌い」と二分して見ているのは自分自身
ということになります。
それがいけないと言っているのではありません。
これは、感情の性質としてしょうがないことなのです。
そう受け止めていればいいのではないでしょうか。
けれど私たちはどうしても
全部が「好き」なものであってほしい!
「嫌い」なものはなくなってほしい!
と、どこかで叶わぬ望みを抱いていたりします。
でも、わかってますよね、それはムリ!って。
なんかね、愛って
そんな「好き」とかいう一部で揺れ動くような
ちっちゃいものじゃないんじゃないかなーって
思うのです。
全部「好き」にならなきゃいけない?
あるいは、少し精神世界に触れるようになったりすると
「嫌だと思う人のことも、嫌だと思う自分のことも、
嫌だと思う世界のすべても、愛せるようにならなきゃいけない」
などと、エラくハードルの高いお題に
チャレンジしたりし始めたりすることもあります。
けれど、もしも
そもそも「愛」の定義が「好き」の最上級であったならば
心の中では「実際そんなのムリ!」という絶望感に苛まれることになるでしょう。
そして
「そんなふうに愛せない自分はまだまだ心の狭い人間だ」
「まだまだ人間がデキていない」
などと、いつまでたっても自分を肯定できないループに
陥ったりするかもしれません。
だけど、それは実際ムリなんじゃないですか。
「ムリ!」でよくはないですかね。
だって、嫌いなものを好きになるなんてムリでしょう?
好き嫌いは単なる感情であり、
感情があるのが人間ですからね。
感情の尺度を使っている限り、
どっちかに振り切って留まるのはムリ。
振り子といっしょだからね。
振り切ったら次には、逆に振り戻ってくるのは自然の摂理でしょう。
だからこそ
好き嫌いにあんまりこだわらず、
そもそも「愛」って何なんだろう?
っていうところが大事かなって思うんです。
だから「愛」って何か、考え直してみる
もちろん、愛の定義に絶対はありません。
あくまでも一つの考え方です。
その上で、私はこれがとってもシックリくる。
愛とは「好き」の最上級ではない。
愛とは、許容、受容、承認、尊重である。
つまり、愛とは「好き」「嫌い」の二極を超えることです。
許容とは
「私が好きとか嫌いとか関係なく、
あなたがそうであることは許す」ということ。
受容とは
「私が好きとか嫌いとかは関係なく
あなたがそうであることは受け止める」ということ。
承認とは
「私が好きとか嫌いとかは関係なく
あなたがそうであることは認める」ということ。
尊重とは
「私が好きとか嫌いとかは関係なく
あなたがそうであることは大事にする」ということ。
たとえ私は賛成できなくても、共感できなくても
好きじゃなくても、同意しかねても
とりあえず
「あなたがそうであることは、OK。わかったよ。」
「あなたがあなたとしてベストであると思うことを、
選択していいよ。」
ということですね。
なにも「あなたが」だけに留まりません。
「自分が」も「すべてが」も。
そうであることを、ただ
許し、受け止め、認め、大事にすることです。
どうです、すばらしいでしょうヽ(´▽`)ノ
私はこういう愛の在り方、すっごく好きだなー!
これなら、嫌いなものを好きにならなくたっていいんですよ。
どうしても好きになれないあの人のことも、
別に好きにならなくたって
「あの人はあの人でいい」って思えたら
それほど苦しむこともありません。
嫌いでもいい。好きでもいい。
それとは関係なく、あなたはあなたでいい。
嫌いでもいい。好きでもいい。
それとは関係なく、私は私でいい。
嫌いでもいい。好きでもいい。
それとは関係なく、すべてはそれでいい。
なんて楽なんでしょう〜 ♪
「それでいい」という場所
「いや、それでいいとかって言っても・・・
正直、それじゃダメでしょー!?」
って??
なんか、反論が聞こえてきそうですが。
そこにはやっぱり
「これはいい、これはダメ」っていう
二極のモノサシがはたらいていますね。
それは人類が長年かけて作ってきた価値観のモノサシですね。
それによってジャッジ(審判)する、という
人類長年のクセが私たちにはありますね。
そのモノサシがいけないっていうわけじゃありません。
とりあえず「この世」はそれで動いているので、
そのモノサシを考慮することも必要かも。
でも、それだけが全てじゃないんです。
とりあえず使っているモノサシがあるけれども、
そのモノサシをとぱらった場所というのもあるのです。
それが、ここで言ってる
「それでいい」という場所。
そういう場所があることを知っていると、
「いい/ダメ」の二極のモノサシの振り切りに疲れた人の
よき安らぎとなると思われます。
単なる「振り回され」に消耗することが少なくなってくるでしょう。
そんな「愛」の場所。
許容、受容、承認、尊重・・・・「それでいい」
私にとって、憧れる愛の在り方。
そして、とても大切な場所です。